ルカ1章
1:1 2 私たちの間で成し遂げられた事柄については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人たちが私たちに伝えたとおりのことを、多くの人がまとめて書き上げようとすでに試みています。
1:3 私も、すべてのことを初めから綿密に調べていますから、尊敬するテオフィロ様、あなたのために、順序立てて書いて差し上げるのがよいと思います。
ルカは、初めからの目撃者が伝えた通りのことをまとめてテオフィロに書き送りました。彼は、すべてのことを初めから綿密に調べました。そして、順序を立てて書きました。他にも、そのようにしている人たちがいることが紹介されています。マタイ、マルコなどです。
1:4 それによって、すでにお受けになった教えが確かであることを、あなたによく分かっていただきたいと思います。
ルカがそのようにする目的が記されています。それは、テオフィロがすでに受けた教えが確かであることを分かってもらうためです。
1:5 ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの組の者でザカリヤという名の祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。
1:6 二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていた。
事のはじめは、バプテスマのヨハネの両親に起こった出来事です。夫は、ザカリヤ、妻は、エリサベツです。二人とも祭司の家系の者です。夫は、祭司であり、彼らは、主の全ての命令と掟を落ち度なく行っていました。
1:7 しかし、彼らには子がいなかった。エリサベツが不妊だったからである。また、二人ともすでに年をとっていた。
1:8 さてザカリヤは、自分の組が当番で、神の前で祭司の務めをしていたとき、
1:9 祭司職の慣習によってくじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになった。
1:10 彼が香をたく間、外では大勢の民がみな祈っていた。
1:11 すると、主の使いが彼に現れて、香の祭壇の右に立った。
1:12 これを見たザカリヤは取り乱し、恐怖に襲われた。
イエス様の先駆けとして遣わされたヨハネの誕生について、これが神からのものであることが明確に示されています。もちろん、全ての誕生は、神によります。しかし、ヨハネが特別に選ばれたものとしてその役割を担うために遣わされた者であることがここには記されています。
一つは、エリサベツは不妊の女であったことです。しかも、すでに年をとっていて、子が与えられることが不可能に見えていたことです。そのような夫婦に子が与えられることで、神様の直接の介入があったことを知ることができます。神の計画によることなのです。これによって、イエス様が神の計画のうちに遣わされたことも明らかになるのです。
ザカリヤは、神殿で香を焚くことになりました。そして、彼には主の使いが現れました。これは、ヨハネが神から遣わされた者であることを明確に告げるためです。しかし、ザカリヤは、動揺し当惑したのです。
・「恐怖に襲われた」→恐れが彼に降った。神に対して肯定的な意味と、否定的な意味の両方がある。ザカリヤが、否定的な意味で神の裁きを恐れるとは考えずらいことです。むしろ。肯定的な意味で、神様を恐れ畏んだのです。
1:13 御使いは彼に言った。「恐れることはありません、ザカリヤ。(なぜならば)あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。
御使いは、ザカリヤが恐れているのがわかりました。それで、恐れるなと言いました。その理由を示し、彼の願いが聞き入れられたからです。すなわち、喜びの知らせなので、恐れることはないと言ったのです。ザカリヤの願いは、子が与えられることです。そして、妻エリサベツが男の子を産むことを告げました。その名をヨハネとつけるように命じ、確かなことであることを示しました。
1:14 その子はあなたにとって、あふれるばかりの喜びとなり、多くの人もその誕生を喜びます。
その子は、ザカリヤ自身にとって、神の恵みを知っての喜びを経験し、また、溢れるばかりの喜びとなることを示しました。彼が祈り願っていた子であるならば、なおさらそのはずです。神が応えて与えた恵みを喜ぶはずです。
また、その誕生は、多くの人にとっても、神の恵みを覚えて喜ぶことになります。次節の初めには、その理由が記されていて、彼は、主の前に大いなるものとなるからです。ですから、この喜びは、赤子が生まれまたことを単に喜ぶということではなく、彼が主の前に大いなる者として知られたときに、彼が世に生まれ出たことを神の恵みと覚えて喜ぶことです。
・「溢れるばかりの喜び」→喜びを表す二つの語からなる。一つは、神の恵みの故の喜びです。恵みを覚えて喜ぶことです。もう一つは、激しい喜びです。
・その誕生を「喜び」→神の恵みを覚えて喜ぶ。動詞。
1:15 その子は主の御前に大いなる者となるからです。彼はぶどう酒や強い酒を決して飲まず、まだ母の胎にいるときから聖霊に満たされ、
1:16 イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます。
その子は、主の前に大いなる者となります。葡萄酒や強い酒を決して飲みません。これは、ナジル人に関連づけて記されています。生まれた時から、神に聖別されていることを表しています。母の胎にいる時から聖霊に満たされます。その目的は、イスラエルの子らの多くを神である主に立ち返らせるためです。神は、彼らの神であり、イスラエル選ばれた神です。その神は、彼らにとって「主」です。それは、絶対的な所有権を持つ方を意味していて、彼らが服従すべき方であるのです。しかしその当時は、多くの人が主から離れていました。
・「主」→正しくは、絶対的な所有権を行使する人;領主(主)。
1:17 彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。」
エリヤの霊は、エリヤと同じ教えを持つことを表しています。エリヤが再びヨハネを通して働くことではありません。力は、エリヤと同じような力を表しています。ただし、ヨハネは奇跡を行うことはありませんでした。
不従順な者たちを義人の知恵に立ち返らせます。不従順な者たちは、神の前に立つときのことを考える知恵がないのです。義人は、自分の歩みが神の前にどのような意味を持つのかを理解しているのです。そのような知恵を与えるためにヨハネは働くのです。
また、父たちの心を子供達に向けさせます。父たちの最も大切な役割は、子を神前に堅く立つ者として導くことです。彼自身が神の前に堅く立つのでなければ子を導くことはできません。模範と教えが必要です。そのような人こそ、主の前に整えられた民であるのです。
・「思い」→外面的な行動を制御する個人的な視点であり、個人的な透察力を反映する。知恵。
エペソ
1:8 この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ、
1:9 みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、
1:10 時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。
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→「知恵」と訳されている語が「思い」に該当。
1:18 ザカリヤは御使いに言った。「私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています。」
ザカリヤの質問は、もっともな質問のように見えますが、二十節の御使いの言葉によれば、彼は、信じなかったので、このように言ったのです。妻と共に歳をとっていることを理由に挙げています。そのようなことを信じるにしても、何を根拠に知るすなわち経験することができるでしょうかと聞いているのです。
1:19 御使いは彼に答えた。「この私は神の前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この良い知らせを伝えるために遣わされたのです。
御使いは、ザカリヤの不信仰を嗜めました。まず、御使いは、神の前に立つものであることを告げます。ガブリエルは、身分の高い御使いです。重要な出来事の時に遣わされます。神に愛されている人ダニエルに特別に遣わされました。そのガブリエルが語っているのに受け入れないのです。
また、ザカリヤに語られた話は、良い知らせです。しかも、彼らの願いを叶えることであり、彼らの望んだ子を与えることであるのです。なぜ、その良いことを信じないでしょうか。
ダニエル書
8:16 私は、ウライ川の中ほどから「ガブリエルよ、この人にその幻を理解させよ」と呼びかけている人の声を聞いた。
9:21 すなわち、私がまだ祈りの中で語っていたとき、私が初めに幻の中で見たあの人ガブリエルが、すばやく飛んで来て私に近づいた。それは夕方のささげ物を献げるころであった。
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1:20 見なさい。これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、話せなくなります。その時が来れば実現する私のことばを、あなたが信じなかったからです。」
御使いは、ザカリヤが信じなかったので、口が聞けなくなると言われました。実際彼は、口が聞けなくなります。それは、彼にとって一つのしるしでした。彼は、口が聞けなくなることで、御使いの語られたことが真実であることを知るのです。その時が来れば実現するのです。
1:21 民はザカリヤを待っていたが、神殿で手間取っているので、不思議に思っていた。
1:22 やがて彼は出て来たが、彼らに話をすることができなかった。それで、彼が神殿で幻を見たことが分かった。ザカリヤは彼らに合図をするだけで、口がきけないままであった。
1:23 やがて務めの期間が終わり、彼は自分の家に帰った。
ザカリヤの不信仰は、残念なことですが、しかし、彼の身に異変が起こったことが民に知られ、彼が幻を見たのだと知られました。それは、ヨハネが神から遣わされたことをより強く証しするものとなります。
1:24 25 しばらくして、妻エリサベツは身ごもった。そして、「主は今このようにして私に目を留め、人々の間から私の恥を取り除いてくださいました」と言い、五か月の間、安静にしていた。
エリサベツは、人々の間から恥が取り除かれたと言いました。子がないことを恥としたのは、人々の目です。子を与えることは、主の主権によります。ただ、人々の心無い目に対して、主は目を留めてくださったのです。
1:25 前節と合節
1:26 さて、その六か月目に、御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。
1:27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアといった。
1:28 御使いは入って来ると、マリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
ガブリエルは、マリアに遣わされました。マリアに言いました。神が恵みを惜しみなく与えていることを喜びなさいと。
・「おめでとう」→神の恵みを経験して喜ぶ。命令形。
・「恵まれた方」→神が恵みを惜しみなく与える。完了分詞。
1:29 しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
彼女は、ひどく動揺しました。その挨拶の言葉を理解できませんでした。
・「ひどく戸惑って」→徹頭徹尾、鋭く悩む。大きく乱される。大きく動揺させる。
1:30 すると、御使いは彼女に言った。「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。
御使いは、彼女の動揺を見て、恐れることはないと言いました。なぜならば、彼女は、神から恵みを受けたからです。恵みと表現したのは、彼女が信仰によって受け取るとき実現することであるからです。神は、その祝福を用意されたのです。御使いは、それを信仰によって受け取るように求めているのです。
1:31 見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。
1:32 その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
1:33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」
そして、彼女の受けた恵みを知らせました。男の子を産むことは、この方が人となることを表しています。その名は、イエスです。「救い」を意味しています。悪魔と、罪の奴隷からの解放です。そして、御国において大いなる資産を受け継ぐのです。
彼は、大いなる者となります。いと高き方の子と呼ばれます。それは、この方の本質が神であることだけを表しているのではなく、その歩みを通して、神の御子としての栄光を現し、ご自分を捨てて御心を行い、神の栄光を現されたがゆえに神の右の座に引き上げられることを表しています。
その父ダビデの王位を与えます。それは、キリストであることを表していて、神の御子です。彼は、永久にダビデの家を治めます。
1:34 マリアは御使いに言った。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」
マリアは、自分が男を知らないのに、どのようにしてそれが実現するのでしょうと問いました。彼女は、律法に従って生きいてる人です。
・「どうして」→どのように。どのようにして。どのような方法で。「なぜ」の意味はない。
1:35 御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。
それで、御使いは、その方法について答えました。それは、聖霊により、いと高き神の力によることです。それで、人にはよらずに生まれることで、聖なる者と呼ばれます。また、神の子と呼ばれます。神の業によって生まれることで、この方が神の子であることを証しするためです。そのことは、イザヤによって預言されたことでもあります。
イザヤ書
7:14 それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。
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1:36 見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。
1:37 神にとって不可能なことは何もありません。」
そして、エリサベツの例を挙げ神にとって不可能なことはないことを示しました。このようにエリサベツのことが取り上げられていることで、彼女が子を宿したことには、主の力によることが証しされています。
1:38 マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。
彼女は、御使いの説明を聞いて、自分は主のはしためであると言い、主が御心のままに事をなさることを申し出ました。はしためであると言うのは、自分を主張しないと言う事です。主の言われる通りに従いますという言い表しなのです。そして、御使いの言葉通りにこの身になりますようにと言い表しました。御使いは、彼女から去って行きました。彼女が完全に服従し、その言葉を受け入れたのを見たからです。
1:39 それから、マリアは立って、山地にあるユダの町に急いで行った。
1:40 そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。
1:41 エリサベツがマリアのあいさつを聞いたとき、子が胎内で躍り、エリサベツは聖霊に満たされた。
マリアは、エリサベツの家を訪ねました。彼女は、急いで行きました。主がなさった業を見るためです。御使いが告げたことを見に行きました。強い関心を抱いたのです。シェバの女王が主の名に関してソロモンを訪ねた時のようです。
その時、子が胎内で踊りました。胎内にいるときから聖霊に満たされていたからです。そして、エリサベツも聖霊に満たされました。
1:42 そして大声で叫んだ。「あなたは女の中で最も祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。
1:43 私の主の母が私のところに来られるとは、どうしたことでしょう。
1:44 あなたのあいさつの声が私の耳に入った、ちょうどそのとき、私の胎内で子どもが喜んで躍りました。
1:45 主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」
聖霊の言葉は、エリサベツを通して語られました。彼女は、女の中で最も祝福された方であると。神が御子を委ねた女です。彼女は、それを主の言葉通りになるように信仰によって受け入れて実現したのです。
その胎の実も祝福されていることを告げたのです。それは、彼女を大いに励ます言葉となったはずです。さらに、主によってかたられたことは必ず実現すると信じたことについて、「主の恵みを受けて祝福されている」と言いました。
マリアがそのまま信じる信仰を現したことで祝福されていることを繰り返し語りました。
1:46 マリアは言った。「私のたましいは主をあがめ、
1:47 私の霊は私の救い主である神をたたえます。
1:48 (なぜなら)この卑しいはしために目を留めてくださったからです。ご覧ください。(なぜなら)今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。
たましいが主を崇め、霊が主を称える理由が記されています。一つは、主の前には卑しいはしために目を留められたことです。それで主を崇めます。
また、これは、主の主権によりますが、それを理解した霊は、主の祝福を覚えて、主である「神」を讃えるのです。神は、主権者を表しています。霊は、その主権に関して讃えます。それを救いとして実現する主である神です。
そして、もう一つは、次の時代の人も彼女が主の祝福を受けたということを捉え、たましいが主を崇めるのです。彼女がその祝福を受けたのは、主の言葉を受け入れ、それに従い通したからです。それで、そのような信仰の歩みに対して祝福を与える主を崇めるのです。信仰に対して応える方ですので、「主」と言い表しています。
・「幸いな者と呼ぶ」→文字通り神から与えられる恩恵(特権)を享受する結果として、祝福されたと宣言する。
1:49 力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。その御名は聖なるもの、
1:50 主のあわれみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。
力ある方は、聖なる大きな業を彼女にされました。それは、彼女を人間的に喜ばせるということではありません。主の聖なる御名によることです。御名とは、特性のことで、神のあらゆる性質を含みます。その名は、聖です。人とは分離した聖なる方の業なのです。
そして、主が契約を忠誠をもって果たされることは、世々に渡ります。それは、主を恐れる者に果たされるのです。契約ですから、主を恐れることに対して与えられる祝福なのです。
・「あわれみ」→契約に対する忠誠
1:51 主はその御腕で力強いわざを行い、心の思いの高ぶる者を追い散らされました。
主は、大いなる力で業を実現されます。そして、心の思いの高ぶる者を追い散らされます。高ぶりは、主の言葉に対する高ぶりであり、自分がよく考えて、主の言葉を受け入れないのです。神の言葉よりも、自分の考えを高くするからです。
・「思い」→思いは、心の働きとしてあります。高ぶるのは、その人の心の内にある考えで、神の教えを受け入れるのではなく、自分がよく考えて神の考えに対して高ぶるのです。
1:52 権力のある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げられました。
主は、権力のある者を王位から引き降ろされます。これは、高ぶる者を低くすることを表しています。また、自分に頼るのでなく、主に頼る内面の謙った人を引き上げられます。
・「低い」→低い。(比喩的に)自己よりも主に頼る人の内面の低さを表す。
1:53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせずに追い返されました。
良いものは、絶対的な善のことで、神の前に良いものを表しています。飢える者がそれによって満たされることは、彼自身がその良いものを求めていることを表しています。
そして、富む者は、この世で富んでいる人です。そのような人を何も持たせないで追い返されます。
・「良いもの」→絶対的な善。
1:54 主はあわれみを忘れずに、そのしもべイスラエルを助けてくださいました。
1:55 私たちの父祖たちに語られたとおり、アブラハムとその子孫に対するあわれみをいつまでも忘れずに。」
主が契約を果たすことを忘れないで、イスラエルを助けてくださいました。これが、父祖たちに語られた約束を指していることがわかります。それを果たすことがあわれみと訳される言葉で表現されています。すなわち、契約を徹底的に果たすことです。マリアは、自分に身に起こった祝福を自分のこととして考えていたのではなく、イスラエルに対する神の約束の実現であることを覚えていたのです。
・「あわれみ」→契約に対する忠誠
1:56 マリアは、三か月ほどエリサベツのもとにとどまって、家に帰った。
1:57 さて、月が満ちて、エリサベツは男の子を産んだ。
1:58 近所の人たちや親族は、主がエリサベツに大きなあわれみをかけてくださったことを聞いて、彼女とともに喜んだ。
近所の人たちと親族は、エリサベツとともに喜びました。それは、主が契約を果たされたことを聞いたからです。単に誕生を喜んだのではなく、主がエリサベツに契約を大いに果たされたことを聞いたからです。エリサベツは、神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていたのです。彼女は、夫と共に子が与えられることを願っていました。主を求める者に祝福をもって応えることは、契約です。単に子が与えられることだけでなく、イスラエルの子らの多くを主に立ち返らせます。神の前に幸いな働きをなす人となるのです。
・「あわれみ」→契約に対する忠誠
1:59 八日目になり、人々は幼子に割礼を施すためにやって来た。彼らは幼子を父の名にちなんでザカリヤと名づけようとしたが、
1:60 母親は「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。
1:61 彼らは彼女に「あなたの親族には、そのような名の人は一人もいません」と言った。
1:62 そして、幼子にどういう名をつけるつもりか、身振りで父親に尋ねた。
1:63 すると彼は書き板を持って来させて、「その子の名はヨハネ」と書いたので、人々はみな驚いた。
生まれた子に名をつけるとき、ザカリヤは、その子の名をヨハネとしました。彼は、御使いに示された通りに従ったのです。
1:64 すると、ただちにザカリヤの口が開かれ、舌が解かれ、ものが言えるようになって神をほめたたえた。
1:65 近所に住む人たちはみな恐れを抱いた。そして、これらのことの一部始終が、ユダヤの山地全体に語り伝えられていった。
その時、ザカリヤは、語ることができるようになり、神を褒め称えました。不信仰だった彼は、神の業を見て神を褒め称えたのです。
1:66 聞いた人たちはみな、これらのことを心にとどめ、「いったいこの子は何になるのでしょうか」と言った。主の御手がその子とともにあったからである。
このことを聞いた人たちは、それを心に留めました。また、主の御手がヨハネと共にあったので、その子が何になるのでしょうかと言いましたが、それは、彼が主にどのように用いられるかということです。主の大きな力が現されるのではないかと考えたのです。
1:67 さて、父親のザカリヤは聖霊に満たされて預言した。
1:68 「ほむべきかな、イスラエルの神、主。(なぜならば)主はその御民を顧みて、贖いをなし、
1:69 救いの角を私たちのために、しもべダビデの家に立てられた。
ザカリヤの賛美は、主が御民を顧みたこと、また贖いをなしたことです。これは、これからなすことを言っているのではなく、アオリストすなわち単純過去形で記されていて、過去の一回の出来事として語られています。
1:70 古くから、その聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。
それは、預言者たちの口を通して語られたことであり、神の計画によります。
1:71 この救いは、私たちの敵からの、私たちを憎むすべての者の手からの救いである。
敵は、悪魔のことです。悪魔は、神の民イスラエルを憎みました。神の栄光を現す民であるからです。救いについては、様々なものからの救いがありますが、これは、信仰者を躓かせようとする悪魔の働きからの救いです。イスラエルは、神を信じており、永遠の滅びに入る者たちではないのです。その彼らに対して、救いという言葉か使われています。それは、信仰者の救いであり、神の御心を行い、御国で報いを受けることを指しています。悪魔は、それを妨げるのです。そして、神の栄光を汚そうとしているのです。
1:72 主は私たちの父祖たちにあわれみを施し、ご自分の聖なる契約を覚えておられた。
主は、父祖に対して立てられた契約を果たされたのです。「あわれみ」と訳されている語は、契約を徹底的に果たすことを意味しています。後半の記述も、これが契約に関係していることがわかります。主は、その契約を覚えておられて果たされたのです。
・「あわれみ」→契約に対する忠誠
1:73 私たちの父アブラハムに誓われた誓いを。
それは、アブラハムに誓われた誓いです。あなたの子孫によって、祝福されるのです。
創世記
22:17 確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。
22:18 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」
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あなたの子孫は、イエス様を指しています。これは、パウロの説明によります。敵の門は、悪魔の支配です。その子孫は、悪魔の働きのもとに、肉に支配されているところから自由になり、聖霊によって歩むようになります。これが契約です。
1:74 主は私たちを敵の手から救い出し、恐れなく主に仕えるようにしてくださる。
敵の手すなわち、悪魔の手から救い出されることで、もはや肉には従わない歩みができるのです。仕えることは、信者が神の御心を行い、神の栄光のために歩むことを表しています。
恐れなく仕えることができます。全き愛は、恐れを締め出します。聖霊によって神の御心を行い、神の愛を示す者となるのです。そのような者に恐れはありません。
→「主は私たちを敵の手から救い出していてくださり(アオリスト分詞)、彼に仕えるようにしてくださる。」
ヨハネ第一
4:18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。
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これは、聖霊を受けているので、全き愛を示すことができるのです。聖霊を受けているので、神の刑罰を恐れないのです。
1:75 私たちのすべての日々において、 主の御前で、敬虔に、 正しく。
「敵の手から救い出す」ことは、神を信じる人の全ての日々において、すなわち、毎日、主の御前に歩ましめ、敬虔に、正しく歩むことができるようにしてくださることです。敵である悪魔は、人が神の前に敬虔に正しく歩むことがないように働きかけます。肉に働きかけ、肉に従うようにさせ、それを実現するのです。私たちが、肉に死に、御霊によって歩むことで敬虔に正しく生きることができるのです。主イエス様に対する信仰は、それを実現させてくださいます。信仰により、内に主が住まわれ、主の愛を知り、神の満ち満ちた様に変えられるのです。
1:76 幼子よ、あなたこそいと高き方の預言者と呼ばれる。主の御前を先立って行き、その道を備え、
1:77 罪の赦しによる救いについて、神の民に、知識を与えるからである。
→「彼ら(主の民)の罪の赦しの中で、彼(すなわち主)の民に救いの知識を与える」
罪の赦しを受けている中で、救いの知識を持つことを語っています。訳のように、罪の赦しを救いと言っているのではありません。文脈としては、信仰者が敬虔に正しく歩むということの一環としてヨハネの働きを語っているのであり、信仰の無い者が信仰を持って永遠の滅びから救われるという話をしているのではありません。特に、これは、ユダヤ人の間で、祭司が語っている言葉です。主の民は、神を信じている民のことです。そのような人たちにとっての救いについて語っています。彼らは、約束されたキリストがおいでになられ、その方を信じることで、罪の赦しが与えられます。信仰による義です。その上で、神の前に義の実を結び御国で報いを受ける救いについての知識を与えるのです。ヨハネが「悔い改めなさい。御国が近づいたからです。」と言ったのは、御国で報いが受けられるような歩みをするように説いたのです。そして、おいでになるキリストは、御霊を与えて、神の前に義とされる歩みを実現させてくださることを説いたのです。
・「罪の赦しによる」→罪の赦しの中で。
1:78 これは私たちの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、
このことは、神がお立てになられた契約に基づくものです。その契約のゆえに深い愛情を示され、ヨハネを遣わし、キリストを遣わされるのです。「深いあわれみ」とは、その意味です。
また、契約を忠誠をもって果たされることが「あわれみ」であり、契約を果たすこととして、「曙の光」を与えたのです。これは、天から、ヨハネとイエス様が遣わされたことです。光は、真理の光であり、神の教えの光のことです。曙は、夜明けのことで、暗いところに光がさすように、救いの知識を与えることであるのです。
・「深いあわれみ」→神の契約に対する忠誠による愛情。
・「あわれみ」→契約に対する忠誠
1:79 暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。」
1:80 幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に現れる日まで荒野にいた。
暗闇は、全く光のないところ、そして、死の陰は、光が差してはいるが、陰にいる状態で、光のうちを歩まないので命がない状態です。そのようなところに光かさすことで、命が与えられるのです。これは、救いと語られたことで、彼らが神と共に生き、そして、御国で報いを受ける者となることを指しています。
「平和」は、完全さのことで、神の御心を行うことでもたらされる完全さのことです。神の前に価値あることは、神の御心を行うことです。そのようにして、私たちが神のようになることが、神の計画であり、イエス様が今も働いている目的です。聖霊は、そのために働いています。
なお、平和が来たとしても、それは、地上のことです。永遠のものではありません。また、平安と訳されることもありますが、たとい平安が与えられたとしても、人の心の状態が改善されるだけで、何も残りません。
・「平和」→完全さ。
・「強くなり」→肉体のことではなく、神の力の支配を獲得すること。主が信者に信じるようにすることで働く。すなわち、信仰によって得る神の力です。